日航機123便墜落事故

千葉県峯岡山にある ADDC(Air Defence Direction Center: 防空指令所 )第44警戒群峯岡山分屯基地(第1高射群指揮所運用隊)で勤務していた時の話

1985年(昭和60年)8月12日 、私は夕方1700~翌朝0800までのシフト勤務で上番中でした。

1800時、隷下の部隊とラインチェック(通信回線点検)とタイムハック(時刻規制)を行い、マスターログに記入していたところ、後ろのコンソールで航空助言をしていたコントローラー(管制官)が(私の名前)、墜ちたぞ!と大声で叫びました。

その時はすでにエマージェンシーが航空機から発令され、レーダースクリーン上でもエマージェンシーコードが表示されていました。事故機の機長とコントローラーの会話はサイト内のモニタースピーカーからも流されていました。

機長からは油圧系統の異常という連絡があり、レーダースクリーン上では機が300Knt程度、YS-11(プロペラ機)並みの遅いスピードでふらふらと進路が定まらずに飛んでゆくのが見えていました。その後、北上しC/L(コンタクト・ロスト:消失)したわけです。

ただちに百里沖で訓練していたF-4(2機)を事故現場へ向かわせました。ところが途中●●党からの妨害でF-4は引き返すことになります。

事故現場はレーダー上でほぼわかっているものの、実際の状況がわからないままでした。

サイト内でもクルーが呼集され緊急事態に備えました。
夜間作業のための出動準備も完了していたにもかかわらず、待ったがかかり自衛隊の出動ができなくなったわけです。

その後は報道の通りですが、すべてが正しい報道とは限りません。でたらめもかなりあります。

航空機はとても薄く軽く作られているため墜落すると何も残りません。海に落ちた機体など木っ端のようになります。
遺体は肉片となり、隊員が横一列で弁当箱をもって箸で拾ってゆくそうです。

痛ましい事故で遺族にかける言葉などありません。

個人的には民間の飛行機なんて乗りたくありません。あれは缶コーラの空き缶にエンジンをつけて飛んでいるようなものです。そんなものに自分と自分の家族を乗せようなんて気にはなりませんね。